クゥトルフの呼び声 第1章 粘土像の恐怖

H・P・ラヴクラフト,クトゥルフの呼び声,ウィアード・テイルズ,1928年
訳
世界でもっとも慈悲深い事実とは、恐らく人間の心がそのすべての内容を結びつけて理解できないということであろう。我々は、無限に広がる暗黒の海に囲まれた、静かな無知の島に住んでいる。そして我々が遠くへ航海すべきではないことは、もともと定められていたのだ。科学はこれまで、各々が異なる方向に力を尽くすことで、我々に大きな害を及ぼすことはなかった。だが、いつの日か、バラバラに存在する知識が結び合わさったとき、現実の恐るべき光景と、そこにおける我々の恐怖に満ちた位置が明らかになり――その啓示により狂気に陥るか、あるいはその恐るべき光から逃れ、新たなる暗黒時代の平穏と安全へと退却するしかなくなるであろう。
神智学者たちは、我々の世界や人類が単なる一過性の出来事にすぎぬ、宇宙的周期の荘厳さを推し量った。そして、もしも楽観主義という仮面で覆われていなければ、血を凍らせるような言葉で、奇怪な生き残りについてほのめかしてきた。だが、私を凍りつかせ、夢の中で狂わせるような禁断の時代の片鱗を見せてくれたのは、彼らではなかった。その一瞥は、恐怖に満ちた真実の断片がいつもそうであるように、分断されたもの同士が偶然に結びついたときにのみ現れた――この場合は、古い新聞記事と死んだ教授のメモである。誰にもこの結びつきを成し遂げてほしくはない。少なくとも私が生きている限り、このおぞましい連鎖の一端を故意に提供するようなことは決してしまい。おそらく教授もまた、自らの知っていた部分について沈黙を守るつもりであり、急死していなければ、その記録を破棄していたであろうと思われる。
私がその事象を知るに至ったのは、1926年から27年にかけての冬、私の大叔父であるジョージ・ガメル・エンジェルの死からであった。彼はプロヴィデンスのブラウン大学でセム語学の名誉教授を務めていた人物である。エンジェル教授は古代碑文の権威として広く知られており、しばしば著名な博物館の責任者から助力を求められていた。そのため、92歳での彼の死は多くの人々の記憶に残っているであろう。地元では、その死因の不可解さゆえに関心が高まった。証言によれば、教授はニューポートからの船を降りて帰宅途中、ウォリアムズ通りの自宅に向かう急な丘の近道で、奇妙な薄暗い路地から現れた船乗り風の黒人にぶつかられた後、突然倒れたという。医師たちは目に見える異常を発見できず、困惑の末、あまりに急な坂を年老いた身で登ったことで、心臓に何らかの障害が生じたのだと結論づけた。私は当初この診断に疑問を抱かなかったが、いまでは――それ以上のことを疑わずにはいられない。

大叔父は子のない寡男であったため、私は彼の遺産相続人かつ遺言執行者となり、その書類一切を丹念に調べることを求められた。そのため私は、彼の書類や箱をすべて自室のあるボストンに移した。私が整理した資料の多くは、後にアメリカ考古学会から公表される予定であるが、その中に一つだけ、きわめて不可解な箱があった。私はそれを他人の目に触れさせるのを極度にためらった。その箱には鍵がかかっており、私は教授が常にポケットに携えていた指輪を調べるまで鍵を見つけることができなかった。ようやく開けることには成功したが、中身を見て私は、より堅牢で理解不能な障壁に直面したような気分にさせられた。奇妙な粘土製の浮彫と、支離滅裂な走り書き、切り抜きの数々――これらはいったい何を意味していたのか? 晩年の大叔父は、子供だましのような詐欺にでも惑わされていたのだろうか? 私は、彼の平穏を乱したこの風変わりな彫刻家を探し出す決意を固めた。
その浮彫は厚さ1インチに満たない粗い長方形で、面積はおよそ5×6インチほどであった。一見して現代の作品と分かる作りではあったが、その意匠は雰囲気も暗示もまったく現代的とは言いがたかった。いかにキュビスムや未来派の奇矯が奔放であろうと、そこに太古の文字に潜むような神秘的な規則性を再現することは滅多にない。そしてこの模様の大半は、何らかの文字体系であることがほぼ確実であったが、叔父の文献や収集物に広く通じていた私の記憶をもってしても、この種の文字を識別することはできず、それどころか、いかなる類縁関係をも想起させることすらできなかった。
この象形文字らしきものの上には、明らかに図像的意図を持った像が彫られていた。とはいえ、印象主義的な手法で表現されていたため、その本質を明確に捉えることは困難であった。それは一種の怪物、もしくは怪物を象徴する何かのようであり、健全な想像力では到底描き得ないような姿をしていた。私のやや誇張気味の想像力が同時に思い描いたのは、蛸と竜と人間の戯画であったが、それはこの像の本質を裏切るものではない。粘質的な触手のある頭部が、鱗に覆われた奇怪な体の上に載っており、未発達の翼がその背に生えていた――だが、何よりも全体の輪郭こそが、ぞっとするほどに恐ろしかった。像の背後には、曖昧ながらもサイクロペス的(訳注:非常に巨大で古代的かつ荒々しい)な建築様式の背景がほのめかされていた。
この奇怪な物体に添えられた文書は、新聞の切り抜きの束を除けば、すべてエンジェル教授の近年の筆跡によるものであり、文体を整えるような配慮はなされていなかった。主要文書と思しきものの見出しには、「クトゥルフ教団」と、読み誤りを避けるために精緻に印刷体で記されていた。この原稿は二部構成となっており、第一部には「1925年――プロヴィデンス、トーマス通り7番地在住のH・A・ウィルコックスの夢と夢作業」とあり、第二部には「1908年A.A.S.大会における、ニューオーリンズ、ビエンヴィル通り121番地、ジョン・R・ルグラース警部の報告――その注記およびウェッブ教授の証言」と記されていた。他の文書はすべて簡略な覚書であり、その一部はさまざまな人物の奇妙な夢の報告であり、また一部は神智学の書籍や雑誌(特にW・スコット=エリオットの『アトランティス』および『失われたレムリア』)からの引用であり、残りは長く秘密裡に存続してきた結社や隠れた教団についての論評であった。そしてその中には、フレイザーの『金枝篇』やマレーの『西欧の魔女信仰』といった神話学・人類学の文献への言及も含まれていた。切り抜きの大半は、1925年春における異常な精神病や集団的狂気の爆発について記されていた。
この主要文書の前半は、非常に奇妙な物語を語っていた。それによれば、「1925年3月1日、神経質で興奮した様子の細身で浅黒い若者が、例の奇怪な粘土の浮彫を携えてエンジェル教授を訪ねてきたという。その浮彫は、持参時点で非常に湿っており、作りたての状態であった。名刺には「ヘンリー・アンソニー・ウィルコックス」と記されており、叔父は彼のことをかすかに記憶していた。良家の末子であり、近年はロードアイランド美術学校で彫刻を学び、学校近くの「フルール=ド=リス・ビル」に一人暮らししていた人物であった。ウィルコックスは早熟の天才として知られていたが、同時に極端な変人でもあり、幼いころから奇怪な話や夢を語ることで人目を引いていた。自らを「霊的過敏者」と称していたが、古き商都の堅実な市民たちは、彼のことをただの「変人」として退けていた。人付き合いもほとんどなくなり、いまでは他都市の審美家たちの間でのみ、かろうじて知られている存在であった。保守的な方針を貫くプロヴィデンス美術クラブですら、彼を持て余していた。
教授の原稿によれば、この訪問時、彫刻家は唐突に浮彫に刻まれた象形文字の識別について、教授の考古学的知識に助力を求めたという。その語り口は夢見がちで仰々しく、芝居がかった印象を与え、共感を得るには程遠いものであった。教授は、この浮彫が考古学とは到底無縁であると即座に見抜き、かなり辛辣な口調で応じた。しかし、それに対するウィルコックスの返答は、叔父が一語一語を忠実に記録したほどに印象深く、幻想的で詩的なものであった。それは彼の性格全体を象徴するような言葉であり、私も後に彼の特徴として強く認識するようになった。曰く、「確かに新しいものです、というのも私は昨夜それを、奇怪な都市の夢の中で作ったのですから。夢というものは、思索するティルスや沈思のスフィンクス、あるいは庭に囲まれたバビロンよりも古いのです。」
その言葉をきっかけに、彼は取り留めのない話を始めたが、それが眠っていた記憶を呼び起こし、叔父の関心を熱病のように惹きつけたのである。その前夜、ニューイングランドでは近年で最も強い地震の震動が観測されており、ウィルコックスの想像力は大いに刺激されていた。彼は就寝後、前例のない夢を見た――巨大なブロックで築かれたタイタンの都市、天を衝くモノリス群、緑の粘液にまみれたサイクロペス的な建造物……それらすべてが潜在的な恐怖に満ちていた。壁や柱には象形文字が刻まれており、下方のどこか不明な場所から「声ではない声」が響いてきたという。それは混沌とした感覚であり、想像力によってのみ音に変換されるものであったが、彼はそれを「クトゥルフ・フタグン“Cthulhu fhtagn”」という発音しがたい文字の羅列で表現した。
この言葉の混乱こそが、教授の記憶を刺激し、動揺させた鍵であった。教授は青年に対して科学者のような詳細な質問を浴びせ、浮彫について狂気じみたほどの熱意で研究を始めた。ウィルコックスは、夜中に突然目覚めたとき、この作品をパジャマ姿で寒さに震えながらも無意識に彫っていたという。教授が象形文字と図像の両方を見抜くのに時間がかかったことについて、ウィルコックスは後に「老齢のせいだ」と述べている。教授の質問の中には、来訪者にとって場違いに思えるものも多く、とりわけ奇怪な教団や秘密結社との関係を追及するようなものは理解不能だったという。ウィルコックスは、何度も繰り返される沈黙の誓約と引き換えに、どこかの神秘的または異教的な団体への加入を認めさせようとされることに困惑した。だが、教授が彼にそうした団体や秘教的知識との関係がないことを確信したのちは、夢についての継続的な報告を強く求めるようになった。
この求めは着実な成果を生んだ。初回の面談以後、ウィルコックスは日々教授を訪ね、夜毎に見た夢の断片――それは常に、黒く滴る石でできた恐ろしきサイクロペス的な光景と、地底から響くような知性の叫びで構成されていた――を語った。その叫びは意味不明な衝撃として脳に打ち込まれ、言語で記述することがほとんど不可能であったが、最も頻繁に出現する語音は「クトゥルフ“Cthulhu”」と「ルルイエ“R’lyeh”」であった。
原稿によれば、3月23日、ウィルコックスは姿を見せなくなった。彼の部屋を訪ねたところ、原因不明の発熱に倒れ、ウォーターマン通りの実家に運ばれていた。夜中に叫び声を上げ、同じ建物の他の芸術家たちを驚かせたのち、彼は昏睡と譫妄を繰り返すようになったという。叔父はすぐに家族に連絡を取り、その後は担当医であるトービー医師のセイヤー通りの診療所を頻繁に訪ねて経過を注視した。若者の熱病に冒された精神は明らかに奇妙なことにとらわれており、医師はその内容に時折身震いしながら語った。それらは、以前の夢の繰り返しにとどまらず、「何マイルもの高さを歩き回る巨大な存在」にまで及んでいた。その姿は完全には描写されなかったが、トービー医師の言葉から判断するに、それは例の夢に登場し、粘土に刻まれたあの名もなき怪物と同一であったに違いない。彼がこの存在について言及するたびに、必ず意識は沈静化し、昏睡に陥ったという。奇妙なことに、体温は平熱に近かったが、症状全体としては明らかに本物の熱病を思わせるものであり、単なる精神的異常とは異なっていた。
4月2日午後3時頃、ウィルコックスの病状は突如として全快した。彼はベッドの上に起き上がり、自宅にいることに驚き、3月22日以降の夢と現実の出来事について何も覚えていなかった。医師から完治を宣告され、三日後には元の部屋に戻ったが、エンジェル教授にとって彼はもはや有益な情報源ではなかった。奇妙な夢の痕跡は回復とともに完全に失われ、以後一週間ほどは取るに足らぬ、ありふれた夢の報告が続いたのち、記録は打ち切られていた。
ここで原稿の第一部は終わっていたが、散在するメモのいくつかへの言及は、私に多くの思索の材料を与えた――あまりに多すぎて、当時形成されつつあった私の懐疑主義的哲学だけが、なおもあの芸術家への不信を抱かせ続けた理由を説明できるほどであった。問題のメモとは、ウィルコックス青年が奇怪な夢を見ていた同時期に、他のさまざまな人物たちが見た夢について記録したものであった。どうやら叔父は、自身が無礼に当たらずに質問できるほとんどすべての知人たちに、夢の報告と、それに関する日時の記録を求めるという、大規模かつ広範な調査を迅速に開始していたらしい。反応はさまざまであったようだが、少なくとも常人が秘書なしで処理できる量を遥かに超える回答を受け取っていたに違いない。これらの原文は現存していないが、メモとしてまとめられた内容は、徹底的で非常に意義深い要約となっていた。
社会人や実業家といった一般的な人々――ニューイングランドにおける伝統的な「地の塩(訳注:聖書より社会や国の基盤をなす誠実で価値ある人々の意)」たち――からは、ほぼ完全な否定的回答が得られた。しかし、3月23日から4月2日までの間――すなわちウィルコックスが譫妄状態にあった時期――には、不安を覚えるがはっきりとした形を伴わない夢を見たという散発的な報告が記されていた。科学者たちもほとんど影響を受けていなかったが、曖昧な風景をかすかに目にしたとする記述が四件あり、そのうち一件では、異常な何かへの恐怖が言及されていた。
最も注目すべき回答は、芸術家や詩人たちから寄せられたものであった。もし彼らが互いの報告を照らし合わせることができていたならば、恐慌が発生していたに違いない。原文の書簡が残されていなかったため、私は叔父が誘導的な質問をしたのではないか、あるいは自身が望んだ答えに合うよう編集を加えたのではないかと半ば疑っていた。だからこそ私は、ウィルコックスが何らかの形で教授の持っていた古い資料を知っており、老学者を巧妙に欺いたのだと信じ続けていたのだ。
しかし、審美家たちからの応答は、実に不穏な内容を語っていた。2月28日から4月2日にかけて、彼らの多くが非常に奇怪な夢を見ており、その夢の強度は、彫刻家が譫妄状態にあった期間においてとくに顕著であった。報告を寄せた者のうち、四分の一以上が、ウィルコックスの語ったものと似た情景や半ば聴こえる音について記していた。そして中には、夢の終盤に現れる巨大で名もなき存在を目撃し、激しい恐怖に陥ったと告白する者もあった。特に強調して記録されている一件は、非常に悲劇的なものであった。対象は広く知られた建築家であり、神智学やオカルトに関心を持っていた人物であったが、ウィルコックスの発症と同日に突然発狂し、地獄から逃げ出した何者かから救ってくれと叫び続けた末に、数か月後死亡したという。もし叔父が番号ではなく名前でこれらの事例に言及していれば、私は照合や個人的な調査を行ったであろう。しかし現実には、わずかな例を突き止めるのがやっとであり、それらはすべて教授の記録と完全に一致していた。教授の質問を受けたすべての人々が、このような困惑を感じていたのかどうか、私はたびたび思いを巡らせた。だが、彼らに対して説明が決して届くことがないのは、むしろ幸いである。
先に述べた通り、新聞の切り抜きもこの期間中の恐慌、狂気、異常行動に関するものであった。エンジェル教授は、世界中のさまざまな地域から集められた膨大な記事を所蔵しており、恐らくはクリッピング業者を雇っていたのだろう。たとえば、ロンドンである人物が夜間に恐ろしい叫びを上げた後、窓から飛び降りて自殺した事件。南米の新聞に送られた投書では、ある狂信者が自らの幻視から破滅的未来を読み取っていた。カリフォルニアの報道では、神智学者の居住区で全員で白衣を纏い、「栄光の成就」を待ち構えたが、何も起こらなかったという。インドからの報道では、3月下旬に深刻な民族的騒乱の兆しがあったと暗に示されていた。ハイチではヴードゥーの儀式が増加し、アフリカの奥地からは不吉な呟きが報告されていた。フィリピンのアメリカ軍士官は、現地部族の不穏な動きに困っていた。3月22~23日の夜には、ニューヨークの警官たちがヒステリー状態のレバント人に取り囲まれる騒ぎも起きた。アイルランド西部では、荒唐無稽な噂や伝承が渦巻いていた。さらに1926年のパリ春季サロンには、「アルドワ=ボノ」という名の幻想的な画家が、冒涜的な「夢の風景」を展示していた。
精神病院における混乱も記録が多く、医学界が不思議な共通点に気づいて何らかの結論を導き出さなかったのは、もはや奇跡としか言いようがない。これら一連の切り抜きは、異様そのものであった。そして私は今となっては、当時これらを無関心な理性で放り出した自分の態度を、ほとんど信じられない気持ちで思い出している。だが当時の私は、若きウィルコックスが、教授の言及していた古い出来事を何らかの形で知っていたのだと、心の底から確信していたのである。
補足
クリッピング業者
「クリッピング業者」とは、新聞や雑誌などのメディア記事を収集・整理し、依頼主に提供する業者のこと。
英語では“press clipping service”や“media monitoring service”と呼ばれる。
かつてはインターネットが存在しなかったため、情報収集には手作業が欠かせなかった。
- ある人物や企業、団体について報道された記事を収集したい
- 特定のテーマ(例:「航空事故」「株式市場」「神秘思想」など)に関する新聞記事を集めたい
こういったニーズに応えるために、新聞や雑誌を日々チェックし、該当する記事を切り抜いて(=クリッピングして)顧客に送るサービスが存在していた。
レバント人
一般的に東地中海沿岸地域(アラブ・トルコ・地中海)にルーツを持つ人々のこと。
- レバノン
- シリア
- イスラエル
- パレスチナ
- ヨルダン
- トルコ南部
場合によってはキプロスやイラク西部も含むこともある。