不思議の国のアリス 第1章 うさぎの穴をまっさかさま

ルイス・キャロル,不思議の国のアリス,1985年
訳
アリスは、姉のそばで川岸に座っているのにうんざりしてきていた。何もすることがなかったからである。姉が読んでいる本を、何度かこっそりのぞいてみたが、そこには絵も会話も載っていなかった。「絵も会話もない本なんて、何の役に立つの?」とアリスは思った。
そこでアリスは、(といっても、暑い日だったので、ぼんやりして眠くなっていたのだが)デイジーの花輪を作る楽しさが、わざわざ立ち上がって花を摘む面倒さに見合うものかどうかを考えていた。そんなとき、ピンクの目をした白ウサギが、すぐそばを走って通り過ぎた。
それ自体は、それほど不思議でもなかった。ウサギが「大変だ、大変だ、遅れちゃうよ!」とつぶやいたのを聞いても、アリスは特に驚かなかった(後になって考えてみれば、そこは驚くべきだったと気づいたのだが、そのときはなぜか自然なことのように思えた)。しかし、ウサギが実際にチョッキのポケットから時計を取り出して見てから走り去ったときには、アリスは驚いて飛び上がった。というのも、それまでウサギがチョッキのポケットを持っているところも、ましてやそこから時計を取り出すのを見るのも、初めてだったからだ。そして、好奇心に胸を焦がしたアリスは、野原を駆け抜けてそのウサギを追いかけた。そしてちょうど間に合って、垣根の下の大きなウサギ穴に飛び込むのを目にしたのだった。

次の瞬間、アリスもその後を追って飛び込んでいた。自分がどうやって出てくるつもりなのかなんて、考える暇もなかった。
ウサギ穴は、しばらくはトンネルのようにまっすぐ続いていたが、突然ふかぶかと下に傾いた。あまりに突然だったので、アリスが身を止める暇もないうちに、深い井戸の中をまっさかさまに落ちていった。
井戸がとても深かったのか、それともアリスがとてもゆっくり落ちたのか、とにかく落ちながらまわりを見回したり、これから何が起こるのか考える余裕がたっぷりあった。最初に、アリスは下を見て、どこに着地するのか見極めようとしたが、暗くて何も見えなかった。次に井戸の側面を見ると、棚や本棚が並び、ところどころに地図や絵がフックにかかっていた。通りすがりに棚からビンをひとつ取ってみると、「オレンジ・マーマレード」とラベルが貼ってあった。けれどがっかりなことに、中身は空っぽだった。下に誰かいたらいけないと思って、アリスはビンを落とすのをやめ、通り過ぎざまにうまく棚に戻した。

「こんなふうに落ちるなら、これからは階段から転げ落ちるくらいなんとも思わないわ!」とアリスは思った。「家のみんな、きっと私のことをすごく勇敢だと思うわ! 家の屋根から落ちたって、きっと何にも言わないんだから!」(実際そうかもしれなかった。)
どんどん、どんどん、どこまでも落ちていく。いつになったら落下は終わるのだろう?
「今のでどれくらいの距離を落ちたのかしら?」とアリスは声に出して言った。「もう地球の中心に近いはずよね。たしかそれって四千マイル(訳注:およそ六千五百キロメートル)くらい下だったと思うわ――」(アリスは学校でこんなことをいくつか習っていたので、聞いている人がいなくても口に出して復習するのが好きだった)「――うん、それくらいの距離のはず……でも今どの緯度か経度かしら?」(アリスは緯度や経度が何か分かっていなかったが、それっぽくて立派に聞こえる言葉だと思っていた)
しばらくすると、また口を開いた。「もしかして、地球を突き抜けて反対側まで落ちちゃうのかしら? 頭を下にして歩く人たちのところに出るなんて、おかしいわね! アンチ……アンチパシーだったかしら――」(このときは誰も聞いていないのが少しうれしかった。どうも違う言葉に聞こえたからだ)「――でも、その国の名前を教えてもらわないと。『あの、ここってニュージーランドですか?それともオーストラリア?』ってね」(そう言いながら、アリスはお辞儀をしようとした――落ちながらお辞儀をしようとするなんて想像できる?)「きっと、その人は私のことを無知な子って思うわね! だめだわ、そんな質問するのはやめよう。もしかしたら、どこかに国の名前が書いてあるかもしれないし」
どんどん、どんどん、どこまでも落ちていく。ほかにすることもないので、アリスはまた話し始めた。「今夜、ダイナはきっと私のことをすごく寂しがるわね!」(ダイナはアリスの飼い猫である。)「お茶の時間に、ちゃんとミルクのお皿をあげてくれたらいいけど。ダイナ、あなたもここにいればいいのに! 空にはネズミはいないと思うけど、コウモリなら捕まえられるかもしれないし。コウモリって、ネズミにちょっと似てるものね。でも、猫ってコウモリを食べるのかしら?」
そしてここでアリスは少し眠くなりはじめ、夢うつつに「猫はコウモリを食べる? 猫はコウモリを食べる?」とつぶやき、時には「コウモリが猫を食べる?」とも言ったりした。というのも、どちらの問いにも答えられないのだから、どっちに言い換えてもあまり意味はなかったのだ。
アリスはまどろみ始めていて、ちょうどダイナと手をつないで歩きながら、まじめな口調で「ねえ、ダイナ、正直に言って。あなた、コウモリを食べたことってある?」と尋ねる夢を見はじめたとき――どさっ! どさっ! と棒きれや枯れ葉の山の上に落ちた。落下はそれで終わったのだった。
アリスは少しもけがをしておらず、すぐに飛び起きて立ち上がった。頭上を見上げても、暗くて何も見えなかった。前にはまた長い通路が続いていて、白ウサギがまだ見える距離で走っていた。時間の無駄は許されない。アリスは風のように駆け出し、ちょうどウサギが角を曲がるとき、「ああ、耳もヒゲも大変だ、もうこんなに遅くなってる!」とつぶやくのを聞いた。アリスもすぐ後ろについて角を曲がったが、そこにはもうウサギの姿はなかった。そして、アリスは天井からランプがずらりと吊り下げられた、低くて長いホールにいた。
ホールのまわりにはたくさんのドアがあったが、どれも鍵がかかっていた。アリスは、片側の端から端まで行き、また反対側にも行ってすべてのドアを試してみたが、どれも開かなかった。どうやって外に出ればよいのだろうと思いながら、アリスはがっかりして中央を歩き出した。
すると突然、三本脚の小さなテーブルが現れた。それはすべて分厚いガラスでできていて、その上には小さな金色の鍵が一つあるだけだった。アリスはまず、この鍵はこのホールのどこかのドアに合うのではないかと思った。だが、残念ながら、鍵穴はどれも大きすぎるか、鍵が小さすぎるかで、どれにも合わなかった。
ところが、二周目にまわったとき、アリスは今まで気づかなかった低いカーテンを見つけた。その裏には、高さ十五インチほどの小さなドアがあった。彼女は金色の鍵をそのドアの鍵穴に差し込んでみると、大喜び! ぴったりだったのだ。
アリスがドアを開けると、その先にはネズミの穴くらいの狭い通路があり、その向こうには今まで見た中でいちばん美しい庭園が広がっていた。アリスはその暗いホールを抜け出して、明るい花壇や涼しげな噴水のあいだを歩きたいと心から願ったが、ドアの穴には頭さえ通らなかった。「もし頭が通ったとしても、肩が通らなきゃ意味がないわね。ああ、私も望遠鏡みたいに折りたためたらいいのに! やり方さえわかれば、できそうな気がするのに」とアリスは思った。というのも、最近ではあまりにも不思議なことが次々と起こるので、本当に不可能なことなんてほとんどないように思えてきていたのだ。
小さなドアの前で待っていても仕方ないので、アリスはテーブルに戻った。そこに別の鍵があったり、あるいは「人間を望遠鏡みたいにたたむ方法」が書かれた本でもないかと、半ば期待して。すると今度は、テーブルの上に小さな瓶があるのを見つけた(「さっきはなかったはずよ」とアリスは思った)。瓶の首にはラベルがあり、「私を飲んで」と大きく美しい字で書かれていた。

「私を飲んで」と書いてあっても、かしこいアリスは、すぐには飲もうとはしなかった。「まず見るわ」とアリスは言った。「『毒』って書いてないか確かめないと」。というのも、アリスは、火のついた火かき棒を握っていればやけどをする、指を深く切れば血が出る、そして「毒」と書かれた瓶からたくさん飲んだら、たいていそのうち具合が悪くなる――そんな簡単なルールを守らなかったために、焼けどしたり猛獣に食べられたりする子供の話をいくつか読んだことがあったからだ。
しかし、この瓶には「毒」とは書かれていなかったので、アリスはおそるおそるひと口なめてみた。そしてとてもおいしかったので(チェリータルト、カスタード、パイナップル、ローストターキー、トフィー、バターを塗ったトーストの混ざったような味だった)、すぐに飲み干してしまった。
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「なんてふしぎな感じなの!」とアリスは言った。「まるで望遠鏡みたいに縮んでいってるみたい!」
そして実際その通りだった。アリスの背丈は今や十インチ(訳注:約二十五センチ)ほどになっていて、あの美しい庭へ通じる小さなドアにちょうどよい大きさになったことを思うと、顔がぱっと明るくなった。けれどもまず、さらに小さくなりすぎないか、しばらく様子を見ることにした。アリスは少し不安だったのだ。「だって、最後にはろうそくの火みたいに、完全に消えちゃうかもしれないもの」と彼女はひとりごとを言った。「そんなふうになったら、私はどんな感じになるのかしら?」それで、吹き消されたあとのろうそくの炎がどんなものかを想像してみたが、実際に見た記憶がなかったので、うまく思い浮かべることができなかった。
しばらくして、これ以上何も起こらないとわかると、アリスはすぐに庭へ行こうと決めた。――だが、かわいそうなアリス! ドアのところに行ってみると、金色の小さな鍵を忘れていたことに気がついた。そしてテーブルのところへ取りに戻ろうとしたのだが、今の大きさではとても手が届かなかった。ガラス越しに鍵ははっきり見えるのに、テーブルの脚を登ろうとしてもつるつる滑ってしまう。何度も挑戦して疲れきった末に、小さなアリスは座り込んで泣き出してしまった。
「さあ、そんなふうに泣いてもしょうがないわ!」とアリスは自分に少しきつめに言った。「今すぐやめるように、自分にアドバイスするわよ!」彼女はたいてい、自分にとてもよいアドバイスを与える(もっとも、それを実行することはめったにないのだが)。時には自分を叱りすぎて涙を流すこともあり、一度などは、自分自身とのクロッケーの試合で自分をだましたと腹を立て、自分のほおをひっぱたこうとしたことさえあった。この変わり者の子供は、ふたりの人間になりきって遊ぶのが大好きだったのだ。「でも今は、ふたりの人間のふりなんて意味ないわ」とアリスは思った。「だって、まともな一人分にも足りないくらいなんだもの!」
そのとき、アリスの目はテーブルの下にある小さなガラスの箱にとまった。彼女はそれを開けてみた。中にはとても小さなケーキがひとつ入っていて、「食べてね」と干しブドウで美しく書かれていた。「よし、食べてみよう」とアリスは言った。「これで大きくなれれば鍵に手が届くし、小さくなれればドアの下をくぐれる。どちらにしても庭には行けるんだから、どっちになってもいいわ!」

彼女はケーキを少し食べて、「どっち? どっち?」と自分に言いながら、成長の方向を確かめようと頭のてっぺんに手を当てた。けれど驚いたことに、まったく変化がなかった。まあ、普通にケーキを食べたときに体が変わることはないのだが、アリスは最近あまりにも非常識なことばかり起こっていたので、普通のことが起こると逆に退屈でつまらなく感じたのだった。
それで、アリスは決心して、ケーキをすべて食べてしまった。
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補足
地球の半径
地球の赤道半径は6,378.137km。
つまりアリスの言った4,000マイル(=6437.376km)という数値は概ね正しいと言える。
アンチパシー
この「アンチパシー」は、「antipodes(地球の反対側)」を言おうとして「antipathies(反感)」と言い間違えたもの。
意味は特になく、言葉遊びと子供らしい混乱を表したユーモラスな描写である。
トフィー
バターと砂糖(または糖蜜)を加熱して作る、固くて粘りのあるキャラメル状のキャンディーのこと。
加熱温度やレシピによって変わり、「やわらかくてねっとり」したものから「カリッと固い」ものまである。
味は濃厚なバター風味と、焼けた砂糖の甘くて香ばしい味わいが特徴で、キャラメルに似ているが、よりリッチでバター感が強い。
日本のお菓子で言うならば、「ミルクキャラメル」が最も近いかもしれない(もう少し焦がしバター感があるかもしれない)。
クロッケー
芝生の上で行うイギリス発祥の屋外球技のこと。
木製のハンマー(マレット)を使ってボールを打ち、金属製の小さなアーチ(フープ)を順番にくぐらせて得点を競うという、のどかで戦略的な庭で行うスポーツ(ゲーム)である。
翻訳・編集
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また掲載されている画像はすべてLV73が独自に制作・用意したものであり、原作とは一切関係ありません。
各章
- 不思議の国のアリス 第1章 うさぎの穴をまっさかさま
- 不思議の国のアリス 第2章 涙の池
- 不思議の国のアリス 第3章 コーカスレースと長いお話
- 不思議の国のアリス 第4章 白ウサギが小さなビルを送り込む
- 不思議の国のアリス 第5章 イモムシの忠告
- 不思議の国のアリス 第6章 ブタとコショウ
- 不思議の国のアリス 第7章 狂気のお茶会
- 不思議の国のアリス 第8章 女王のクロケー場
- 不思議の国のアリス 第9章 まがいウミガメの話
- 不思議の国のアリス 第10章 ロブスターのカドリーユ
- 不思議の国のアリス 第11章 タルトを盗んだのはだれ?
- 不思議の国のアリス 第12章 アリスの証言